二重まぶたになりたくて

私は小学生6年生ぐらいからコンプレックスがありました。

顔が面長で真っ平らで、思いっきり重たい一重で、普通にしてたら常に怒っているような顔面でした。

お母さんは私の赤ちゃんの時の写真の目の部分にマジックで黒く足して大きく見せる工夫をしてるぐらいでした笑

 

そのコンプレックスに感じたのは、男の子から紫式部に似てるよね。大昔だったらめちゃくちゃモテそう。って言われてからでした。

え、それ褒めてんのか褒めてないんかよーわからんしな笑

確かに!それを言われてから私は絶対に舞妓体験みたいなんで白塗りはしねぇぞって決めました。

 

もっとわかりやすく言うなら、千と千尋の恩返しが公開された当時カオナシに似てるよねと言われ、うまいこと言うなと思いました。ほんとそれ!それは中学校時代。

もう顔ないやん!ってこれからはノリツッコミしようと決めました。

 

正直、自分の夢がお笑い芸人だったのは、お笑いが好きなのもあるけど、私のこの不細工さを笑いにして生きていけたら良いんだろうってのもありました。

皆んなのけなしとか、イジメっ子のいじりは辛かったこともあったけどプラスに捉えるとネタになる。

それで人が笑って私も笑えたら最高だと思ったからでした。

 

でも本当に自分の顔が大嫌いで、しかも家族でこんな薄っぺらくて面長でキレキレの一重は私だけでした。だから私は拾われたんだろうな、とか勝手に思ってました笑

それから私は高校に入って、メイクで人のコンプレックスを隠せることに興味を持ち、アイプチで二重を作るようになりました。

ノリで引っ付けて。

でも毎日同じようにはできないし、時間がかかるしそれこそが面倒になってきて、高校3年の冬休み、プチ整形をしようと決めました。

決めたはいいけど本当に怖くて直前にやめようかと思いましたが、ここまできたら。と思って大阪まで行きました。父母も付いてきてくれました。

ちなみに父母にプチ整形しようと思う。って言ったら、そうやな、した方がいいって感じでもはやその方がいい的な返しでした笑

そんな感じなん?笑

 

ちなみに、父は私が不細工だから結婚できない的なことをボヤいたら、大丈夫や!顔じゃなくても中身を好きになってくれる奴が1人2人は絶対居る!という慰めがあったが、それは慰めなのか?という、結局不細工問題は解決できないということなんだなと悲しくなったこともある笑

 

整形外科で私は1番安い、糸で二重幅を作るものを選択しました。予算と腫れが引くまでの日数が足りなかったため。

ただ、私の瞼の肉厚がありすぎて切開しないと自分の理想のものまではできないという悲しき事実を知りました。ぱっちり二重はできないらしい。まぁでも、奥二重にでもなれるならそれがいい。また予算できたら切開をしよう。

 

施術は部分麻酔のため、目に針が通る感覚が気持ち悪過ぎて必死に耐えましたが、血圧が下がり過ぎ、施術後はちょっとの間動けなくなりました笑

 

でも、自分は遂にやったんだ!と、とても嬉しかった。目はパンパンに腫れてだけど、心は晴れ晴れしてめちゃくちゃ前向きになりました。

 

あー、これで堂々と生きられる!そんな自信がつきました。

 

たった2万ちょっとでこんなに幸せな気持ちにかるなら皆んなバンバンプチ整形したらいいのにって思いました。

 

一重の自分は鏡を見ただけでため息が出て自信をなくし、顔を見られたくないから下を向き、何かにつけて私は不細工だから、と色んなことを諦めていました。

写真が嫌い過ぎて、高校時代自分の写っている全ての写真を破り捨てました。だから自分の写真は母がアルバムに残してる幼少期のものしかありません。

 

だからこれは人生の中でめちゃくちゃ意味のある体験になりました。

 

前を向いて堂々と歩ける!

堂々と笑える!

これだけでめちゃくちゃ幸せなんです。

 

もし、本当に悩んでる人が居るなら整形した方が絶対自分に自信がつくから価値ある投資だなと思いました!

暗黒の高校生時代

続いては私の高校時代の話です。

実は高校時代、ほとんど学校に行っていませんでした。

一年生の時はちゃんと真面目に行っていたのですが、二年生になりほとんど行かなくなりました。

理由は色々とありますが、、、というか色々と重なったから行かなくなったのだと思います。

理由になったであろう思うことを書いていってみようと思います。


理由1

そもそも中学校で一緒だった仲良し組と高校が離れたから。

みんな頭の良い学校に行ってしまい、勉強しないで遊んでいた私だけ違う学校に行った。

 


これは本当になんでちゃんと勉強してなかったんだい?と思えるぐらい勉強してませんでした。

ギリギリに塾にも行かせてもらいましたが、塾に行けば頭が少しは良くなると変な解釈をしていたため、一向に頭に入りませんでした。

本当にバカでしたが、友達はめちゃくちゃ勉強してました。

でも私は何故か焦りがなかった。

うん。プラスに捉えれば私は環境に左右されないタイプなんだろうね。

三年生の時何してたんだい?っていうと、ひたすらマンガ読んで絵を描いてました。

絵を描くのが好きだったので。

 あと、現実逃避ができる。

逃げ癖がついてしまったのです。

とりあえず高校は入学できて良かった。それすら危ういと塾で言われていた。


理由2

高校一年生の時たまたま小学校時代の幼馴染と同じクラスだったのでそれなりにやってましたが、二年生になりクラス替えでまた離れてしまい本当の本当に友達が居なくなってしまい、心細くなってしまった。。。居場所って大事ですね。

 

理由3

勉強をやっていなかったため、そもそも高校の授業についていけてなかった。

完全に勉強をやる意味あるのか?(あるある)という疑問だけが残っていた。

私は目立ちたいタイプではなくいじめられるタイプでした。

小学校から夢はずっとお笑い芸人でした。だから勉強しなくていいと思っていたのです。

昔からとにかくお笑いが大好きでした。

新喜劇を見て育ち、小学校でM-1の初代王者中川家の回を見てお笑い芸人はこんなに名誉なことなんだと思いました。

高校時代ビッキーズがとにかく大好きだってビッキーズの母校に行こうとずっと決めてたので進路に悩むということはあまりなかったです。

でも唯一好きな分野が選択できる授業でCAD技術、ワープロ検定、簿記検定。資格は取れるような授業を選択しようと思っていたので、資格は積極的に受けていました。

そして好きだったのでちゃんとやっていました。簿記は特に好きだったので会計士の授業も受けたかったのですが、人数が足りなく受けることができませんでした。 

ここで会計士を受けておたら本気でちゃんと勉強したいなこの道もいいなと思ってましたが、開講されなかったことで諦めてしまいました。


続く

お師匠現る

そしてまたSVさんが変わることになりました。

荒れに荒れててお店を辞めたい騒ぎを起こしてた時、社長がメンターSVさんに連絡をしてくれて担当店でもないのに私の話しを聞いてくださいました。

 

そして次に変わるSV、私が師匠と呼ぶ方も一緒に親身に話しを聞いてくださいました。

 

今の現状を変えるためにこうした方がいい、こうしていったらどうでしょうか。という話しでした。

 

わたしもそれに納得し、とりあえずもう一度やってみようと思いました。

 

その時、私は今までひとりぼっち。誰も何も助けてくれない。という状況から、私にはたくさん話しを聞いて助けてくれる人が居るんだな、と感じました。

こんなメンタル最弱な私が居ながらお店ではみんな一生懸命に働いて24時間回してくれてるんだな。

 

と、感じるようになりました。

 

そして私の旦那さんが私の時間を空けてやる、とシフトに入ってくれるようになりました。

これは本当に本当に心強かったです。

 

あんなに暴言吐いてた私のことを旦那さんなりに助けてくれたのです。

 

それから私は悩みは全て打ち明けて、師匠の話しを聞いて動けるように努力しようと思いました。

 

たぶんその時に腹を割ったんだと思います。

 

今の私の立場からは逃げれないんだから、これが私の運命。私がやるべきことなんだ。

 

自分は今の現状まで前向きになれたのはコンビニ経営をさせてもらえたお陰。

父に感謝も感じれるようになりました。

 

人は誰かに支えられてると思うと、なんか勇気が湧いてきて前向きになれる気がします。

そして今に至るというのが私の今も続いているコンビニ6年間のお話しでした。

狂いました

もう限界だと感じたのです。

メンターであったSVさんも3人目の店長がいらっしゃった間に変わってしまい、私にはよりどころがありませんでした。

 

かわいいかわいい我が子だけでした。

もっとこの子たちと居たい。

この3年の間に凄い大きくなりました。

始めた当初は下の子が(2人居ます)1歳半だったのです。

その成長をずっと見ていることができなかった。

ずっと見ていたかった。

仕事で疲れて余裕もなかった自分が最低だと思えた。

そうすると、周りの全てを恨むようになりました。

 

本気で限界だ。

もう辞めよう。

 

だって私がやりたいと言ったのではない。

社長は店長が居なくなったから私に押し付けて、しかも私がやりたいと名乗ったと言い出すのです。

は?

 

泣き叫び倒しました。

責任を取ってくれ、辞めさせてくれ。

私以外で店長をしようなんて奴は会社に居ない。

うちでなくとも他の店舗が引き継いでくれる。

 

コンビニには契約があり、まだ契約満了までは年数がありました。

その契約の途中解約にはだいたい1千万円程の資金がかかるのです。

でも私には関係がありません。私は十分にやった。

それよりも私の子供たちと一緒に居たい。

 

SVさんに相談した時に言われた言葉で、あんたは努力してない。

と言われたことがあります。

努力していないのか?

何を定義に努力と言うのか?

自分の中で精いっぱいやってるつもりでした。

 

何がそんなに辛いの?

子供たちと一緒に過ごせないこと。

もう私は大事な時期を逃してしまっている。

もう逃したくはない。

 

とにもかくにも本当に辛い時期でした。

 

でもそこでまた新たなSVさんに変わることになりました。

私のお師匠です。

 

続く

3人目の店長

私は幸運だ。

少ししてから3人目の店長が入ってくれた。

 

私は今度こそはと、今までの失敗を2度としないように考えて最初から高い給与ではなくみんなと同じ給与、店長になるのは認められる立場になれば、仕事に入る時間も8時間(希望があったので週6)、という形にしました。

 

でも今考えれば問題は他にあったのです。

 

3人目の店長はたまに風邪や腰痛で休むことがあっても基本的にはちゃんと出勤してくれ、私が困った時は助けてくれました。本当にとても助かりました。

でも私が失敗したのは、教育でした。

私が店長に教育をしなければいけなかったのです。

そんな頭は一切なく、そもそも自分を店長とは認めず逃げていました。

店長がなんとかしてくれると思っていたのです。

そんなわけがないですよね。

でも本当にそう考えていたのです。

3人目の店長と話すことは業務ぐらいで、方針や考え方、理念などの話しは全くしなかったのです。

そんなこんなで1年半はお店で働いてくれましたが、辞めたい、という話しになってしまったのです。

 

まただ・・・

 

私は学生の時からお金を稼ぎたくてアルバイトは色々やってきました。

スーパーのレジ、ホテル清掃、居酒屋、セレクトショップ

アルバイト選びの中で絶対避けていたのが”コンビニ”だったのです。

視野にもありませんでした。あまりに作業内容が多いのでできないと思っていました。

そして実際作業内容が多かった。

ましてやコンビニの店長には絶対なりたくない。と学生の時から思っていました。

なりたくない職業断トツナンバー1でした。

 

絶対店長になりたくない。責任を負いたくない。

アルバイトの指導をしたくない。上に立ちたくない。

教育なんてしたくない。発注なんてしたくない。

もう人と関わりたくない。無の感情の笑顔を作りたくない。

子供たちと居たい。

 

しんどい・・・

 

辛い・・・

 

もう本当に嫌になった・・・

 

また独りぼっちだ・・・

 

私は独りぼっちだ・・・

 

押し付けもいいとこだ・・・

 

そして私は父を恨みました。

父に嘆いて助けをもとめても、コンビニのことはわからんから知らん

お前がちゃんと指導せんからや優しくしすぎや

と、逆に私を責めるのです。

コンビニなんて誰にでもできるやろうと、

私にはできない。

腹が立ちすぎて恨みに変わりました。

酷いのはその話しを笑いながら話すこともあったのです。

 

楽しみなんて一欠けらもなく、苦しみしかありませんでした。

なんでこんなことになったんだと泣くことが多くなりました。

毎日毎日辛くて苦しくて。

 

本当に死んでやりたいと思ったことがありました。

夜中に1人で何度も逃亡しようと思いました。

夜中に車を走らせ続けたこともあります。

でもそんなことをすると今までの店長と同じだし、スタッフに迷惑がかかる。なにより子供たちが悲しむ。

 

そんな感じで次の日また出勤するのです。

辛くて事務所でよく泣いていました。

 

遂に限界だと感じたのです。

 

続く

怒涛の2週間

そしてSVさんと相談をし(事例がないのでどのぐらい人が来てどのぐらい需要があるのかが全く予想つきませんでした)、準備して遂に大きな大会が始まりました。

 

常温総菜を店舗で揚げて持ってきてもらい、朝早くから家族総出でおでんを仕込み(レンジ持参でダシはポットに)、飲料はどぶづけで(毎日だったから氷大変やった、、、)有難いことに思った以上に売れてくれててんやわんやでした。

おむすびなどを持ってきているお店がうちと隣にたい焼き屋さん、他1店舗、あとはお土産屋さんぐらいでした。

選手の方や応援の方関係者の方、たくさんの方がご利用いただけた。

大変だけど申し込みして良かった。それもこれもスタッフやSVさんのご協力のおかげ、本当に感謝でした。

店長が朝から夕方まで不在の2週間お店を切り盛りする店舗スタッフの方が絶対大変だったはずです。言うなら私は用意したら座っているだけだから。

 

そんな中、お店の中でもスタッフ間でトラブルがあり、次の朝出店準備して、スタッフと話し合い、そのまま出店ということもありました。

やはり協力すると言ってもバラつきがあり、はけ口も話し合える店長も居ない状態では限界があったみたいです。

小売業にとって店長はトラブル何かあった時に指示をだす。この役割は必ず必要なのです。(あ、これもメンターSVさんからの受け売りです)

 

そして怒涛の2週間を終え、一安心。

そんな時にスタッフの1人の方から賞状をいただきました。

出店からシフトまでよく頑張りました。という内容でした。

お店の運営も大変だったはずなのに、なんだよあいつとか思われてもいいはずなのに、本当涙が止まりませんでした。

みんなでやりきれて本当に良かった。

その賞状は今でも部屋に飾っています。

賞状を見ると、自然と頑張ろうと思えます。

この経験はとても濃い思い出になりました。

 

そして3人目の店長を迎えることになります。

 

続く

2人目の店長

そして今まで店長をやっていただいていた方は通常業務になり、すぐではなかったが辞める目途もつき、徐々に笑顔も戻ってきた気がしました。

 

私も普通に会話ができるようになりました。

そして社長が親戚の中で転職を考えている方を見つけていただき、その方がお店で働いていただけるようになりました。

 

2人目の店長です。

その店長は時間はたくさん入るから、給料は多く欲しいという考えの方でした。

12時間シフトで週6勤務。

めちゃくちゃ素敵な店長が来てくれたと私は嬉しかったです。

いつも1時間前には店には来ていて、ちゃんと出勤してくれて本当に助かりました。

 

ただ酒癖が悪く、毎日出勤時は酒臭いっていうのが当たり前でした。

それを若い女性スタッフが悪く思い、指摘し店内で言い争いになることもありました。

その店長も立ち向かっていくタイプだったので話し合いにはなりませんでした。

出勤の最初の方にお客様から文句を言われ、お客様に立ち向かっていったときはどうしようかと思いました。(止めましたが)

 

それから何日か経ち、私は少しづつお店から離れる体制にしていきたいと思っていました。

たまに遅刻することもありましたが、ちゃんと出勤もしてくれていたのでそんな問題なことではないと思っていました。(今考えると同じことになってるのに気づいていない)

そんな矢先、一本の電話が鳴りました。

 

「マネージャー、店長が出勤してこないんです。」

え?!

急いでお店に行くと、スタッフが長い時間残って店長のシフトをフォローをしてくれていました。

早々に帰っていただき、出勤が終わってから電話をかけましたが、やはり電話に出ず、無断欠勤。

おかしいと思い家まで行ってみました。

 

駅前の古いビルの一室。

チャイムを鳴らしても応答なし。

恐る恐るドアノブをまわしてみると、鍵は開いたままでした。

 

ギギーっと開けてみると物音はしていなく、電気はついていました。

私は名前を呼んでみると、布団に入ったままの店長の姿がありました。

(あ、全然事件性はなかったです)

何より無事で良かった。腰痛が酷く、出勤ができなかったとのこと。

(確かそんな理由だったはず。あまり病名は覚えていない。)

また良くなったら連絡ください。と、お水だけ差し入れして帰りました。

 

でもそれから店長が出勤することも姿すら現れることはありませんでした。

うん。行ったときになんとなくわかったけど。

電話で辞めたいという連絡だけいただきました。

半年ももたないまま辞めてしまいました。

 

店長がまだ出勤していた時、自分の時間が空いたので私は近くのスポーツセンターで大きな大会があるのを知り、出店枠を申し込みしていました。

それが2週間程長くあったため、私はやばいと思いました。どうしよう…

大会まであと1か月。

私はスタッフに相談しました。辞退しようか…

でもスタッフの方々はその期間は大丈夫私達が協力するからマネージャーは出店してきなよ!と心強い声をいただきました。

 

ただ正直、きつい日は朝早く準備して出店して夕勤に入る、そして次の日はまた朝早くから準備と、けっこうカツカツでした。

意を決して出店を決意しました。

 

続く